
目次
一昔前ならSF、あるいは健康管理のアドバイス機能にすぎないと思われていたことが、現代の日本の医療現場では現実のものとなってきました。その中でも影響力のあるものの一つとして「DTx(Digital Therapeutics:デジタルセラピューティクス=デジタル治療アプリ)」という領域があると言っていいでしょう。
スマートフォンにインストールしたアプリが、医薬品のように医師から「処方」され、さらに健康保険が適用されるのです。この医療業界におけるパラダイムシフトは、米国を起点に、欧州、そして日本へと波及し、今や世界的な大潮流となっています。
本記事では、世界の主要なDTxサービスや各国の制度を紹介し、さらに「治ると儲からなくなる」という医療業界の構造的矛盾や現場の心理的抵抗をデジタルがどう解決していくのかまで解説していきます。
近年、スマホのアプリストアには「体重管理」「睡眠記録」「生理周期予測」といった、健康をサポートするアプリが無数に並んでいます。身近な家族や友人でも体重管理のためにアプリを使っていたり、睡眠管理しつつ遊べるポケモンスリープを使っていたりする人もいるのではないでしょうか?


体重管理や睡眠管理アプリなど
しかし、これらと「DTx」は完全に一線を画すものです。まずはその定義とDTxが注目するようになった背景を明確にしましょう。
DTxとは、一般的には「医学的なエビデンス(科学的根拠)に基づき、疾病の予防、管理、または治療を目的として、従来の治療手段と併用または代替する形でソフトウェアにより患者に介入するもの」を指します。
日本の医療業界(薬機法上など)では明確な定義は固まっておらず、プログラム医療機器(SaMD)における「疾病治療用プログラム又はプログラムを記録した記録媒体」の中でも、より治療に寄与し、よりリスクを有するものとされているようです。

プログラム医療機器の範囲とDTxの想定される位置づけ
一方でヘルスケアアプリとは、健康管理や医療サービスの補助を目的として開発されたスマートフォン向けのアプリケーションです。ユーザーのバイタル情報や食事、ストレスの記録などの情報を取得し、またそれらの情報をウェアラブルデバイスなどと連携して取得するものもあります。
一般的なヘルスケアアプリとの違いは、使用目的、エビデンス、薬事承認、医師による処方といった要素に集約されます。
DTxとヘルスケアアプリの違い
医療の歴史を振り返ると、人類は「物質(医薬品)」と「物理(医療機器・手術)」によって病気に対処してきたと言えます。
DTxは、この2つに続く「第3の治療アプローチ」と位置づけられています。なぜなら、従来の薬や手術ではアプローチが難しかった「患者の認知や行動変容(生活習慣の根本的な修正)」に対して、24時間365日リアルタイムに介入できる手段だからです。
ITビジネスの一般的なセオリーは、App StoreやGoogle Playを通じて広く一般消費者に直接届ける「BtoC」モデルです。その方が流通の手間がなく、爆発的なユーザー獲得(スケール)を狙えるからです。
一方でDTxはわざわざ「医師の診察と処方」という、きわめて重いボトルネックを経由するビジネスモデル(BtoBtoC)を選択しています。一見すると非効率的なビジネスモデルですが、ここにはビジネス戦略上のメリットがあります。
最大の理由は「参入障壁」と「収益化の圧倒的な安定性」の構築にあります。つまり医療機関や規制当局の厳しい審査をクリアし、「保険適用」という国や保険組合のお墨付きを得られれば、極めて重いボトルネックは逆説的に競合が簡単に真似できない強固な障壁となります。さらに、患者の自己負担を大幅に抑えることができ、一般の有料アプリとは比較にならないほどの高い継続率と、安定したLTV(顧客生涯価値)を達成されます。不自由な規制の枠組みにあえて飛び込むことこそが、デジタルヘルスにおける最強の防壁であると言えるでしょう。
世界に目を向けると、DTx市場は米国での激しい新陳代謝と、欧州での制度イノベーションによって急速に成熟へと向かっています。
世界で最も早くDTxの市場が立ち上がったのは米国です。ここでは「慢性期疾患」「精神疾患」を対象としたアプリやゲームなど、多様なサービスが生まれています。

EndeavorRxのゲーム画面
米国が民間主導で市場を切り拓いたのに対し、欧州――特にドイツは「国家の制度設計」によってDTxを爆発的に普及させました。
ドイツでは2019年にデジタルヘルスケア法(DVG)が成立し、「DiGA(ディーガ)」と呼ばれる薬事申請後3カ月で迅速審査が行われ、さらに保険適用される制度がスタートしました。これにより、一定の安全性が認められたDTxは、確定的な臨床エビデンスがそろう前であっても「1年間の暫定的な保険適用」が認められ、実際の医療現場で使いながらデータを集めることが可能になったのです。
フランスでも2015年にHAS(フランス高等保健機構)が、Forfait Innovation(イノベーションの保険償還)プログラムを導入し、最初の申請から45日以内に初期審査を行い、全体で120日以内に最終判断を行うという短い期間で保険償還の可否が審議されるプログラムを導入するなど、政府がスタートアップの成長を後押ししています。
世界的に見ると、日本は「世界一厳しい薬事承認」と「国民皆保険制度」を持つ国です。この極めて慎重な日本市場において、正面からエビデンスを証明し、DTxの道を切り拓いた圧倒的なパイオニアが株式会社CureApp(キュアアップ)です。
CureAppは、医師である佐竹晃太氏と鈴木晋氏によって2014年に創業され、日本の医療史に刻まれる快挙を次々と成し遂げてきました。
2020年8月、CureAppの禁煙治療用アプリが「ソフトウェア単体として日本初の薬事承認」を取得し、同年12月に保険適用されました。
従来の禁煙外来では、ニコチンパッチなどの「身体的依存」を抑える薬が使われますが、多くの人が失敗する原因は「口寂しい」「ストレス解消に吸いたい」という「心理的依存(認知の歪み)」にあります。
CureAppのアプリを用いた禁煙プログラムの一例である「ascure卒煙」は、2〜4週間に1回しかない通院の「空白の期間」に毎日患者に並走します。また医師はオンラインによる面談を定期的に行っており、通院することで時間が奪われるといったストレスなく治療を受けることができます。
当該プログラムではニコチンパッチやガムなどの禁煙補助薬も併用するものの、開始から6カ月経過時には禁煙の成功率が50%程度まで達したデータがあります。

アプリによるアドバイスのイメージ
続いて2022年、CureAppは「世界初の高血圧症治療用アプリ」CureApp HTの薬事承認および保険適用を達成しました。生活習慣病の代名詞とも言える高血圧に対して、デジタルが挑んだ事例として世界中から注目を浴びました。
高血圧治療の基本は、塩分制限や運動といった「生活習慣の修正」ですが、継続できる患者はごくわずかであり、結局は生涯にわたって降圧薬を飲み続けるケースがほとんどでした。CureAppのアプリは、患者ごとの血圧データ、塩分摂取量、睡眠、運動習慣をトラッキングし、下記のような行動変容の促進や知識のインプット、データ連携などにより高血圧の改善を目指します。

アプリの操作画面
ビジネスの視点からグローバル全体のDTxを見渡すと、一つの巨大な「構造的矛盾」に突き当たります。
従来の医療ビジネス、特に慢性期疾患(生活習慣病など)の領域における製薬ビジネスは、患者が通院し続け、「治ると儲からなくなる」というDTxの構造的矛盾は、医療現場に「自分の役割を奪われるのではないか」という心理的ハレーションを生みがちです。しかし、DTxの本質は現場を未知の領域へ追いやるキャリアシフトではなく、今ある専門性をデジタルでより高い価値を生み出すソリューションとなり得るのです。
医療の主要なバリューチェーン(研究職・MR・医師)の視点で見ると、その納得の構造は明確です。
このように、物質(薬)の限界をデジタル(アプリ)が下支えする「Around the Pill」の構造こそが、現場のプライドを守りながら医療エコシステムを健全化していく最も現実的な着地点です。

DTxを踏まえた医療エコシステムの目指す姿
米国の先駆者たちが切り拓き、欧州が制度でそれを加速させ、そして日本においてCureAppなどが強固な医療エビデンスの壁を打ち破ったことで、DTxはもはや一過性のトレンドではなく、医療の「インフラ」として定着しつつあります。
これは単なる「便利なITツールの導入」ではありません。病気になったら「薬を飲む」「手術をする」という受動的な医療から、「デジタルを相棒に、自らの行動で身体を健やかに変えていく」という、医療のあり方そのもの変革です。
次にあなたが病院に行ったとき、医師から手渡されるのは白い薬の袋ではなく、QRコードが印刷された「アプリの処方箋」かもしれません。ソフトウェアが病を治す未来は、もう私たちのすぐそこまで来ています。
【参考】
アーツアンドクラフツConsulting & Solution事業部/アナリスト。得意分野はサステナビリティ、決済事業、エネルギーなどの事業戦略の提案や、それに伴う調査