
現代のマーケティング環境は、かつてないほど複雑化しています。企業はビッグデータ、AI、高度な分析ツールといった強力な武器を手にしていますが、皮肉なことに、消費者の心に真に「刺さる」メッセージを届けることは、以前にも増して困難になっています。その最大の要因は、消費者の「注意(アテンション)」が極端に希少化していることです。1970年代、平均的な消費者が1日に目にする広告数は約500件程度でしたが、2024年には6,000件から10,000件に達しています。この20倍もの情報洪水の中で、消費者の脳は自己防衛的に進化し、無意識のうちに大半の広告を遮断する「アド・イミュニティ(広告免疫)」を獲得しました。特にZ世代の66%がアドブロッカーを利用し、彼らのアテンション・スパンはわずか8秒にまで短縮されています。従来の画一的なマス・マーケティングやプッシュ型広告は、もはや「届かない」どころか、消費者の不快感を招くノイズと化しているのです。このような環境下で企業が生き残るためには、単なる情報の露出量を増やすのではなく、消費者一人ひとりの「本質的な課題」を深く理解し、その解決に真摯に取り組む姿勢が不可欠です。しかし、その「本質的な課題」とは何でしょうか。どのようにすれば、それを捉えることができるのでしょうか。
本記事では、購買データを超えた「生活文脈」の理解、フィールドマーケティングによる現場観察、ジョブ理論の活用、そしてAI時代における人間的共感の価値という4つの視点から、消費者の本質的課題を捉える方法を体系的に解説します。
多くの企業は、マーケティングの意思決定においてPOSデータ、Web閲覧履歴、購買履歴といった「購買行動データ」に依存しています。これらのデータは確かに有用であり、「何が、いつ、どこで、いくらで売れたか」という事実を正確に記録します。しかし、これらのデータには決定的な欠陥があります。それは、「なぜ、その瞬間にその行動が必要だったのか」という本質的な動機(Why)を説明できないことです。購買行動データは「結果」を記録するものであり、その背後にある消費者の感情、状況、文脈、葛藤といった「プロセス」を捉えることはできません。例えば、あるコンビニエンスストアのデータで「30代男性が金曜日の夜にビールとスナック菓子を購入する傾向がある」という相関関係を発見したとしましょう。しかし、このデータからは以下のような本質的な問いに答えることはできません。
これらの「Why」が分からなければ、その消費者に次に何を提案すればよいのか、どのようなメッセージが響くのか、どのような新商品が求められているのかを正確に予測することは不可能です。
従来のマーケティングは、消費者を年齢、性別、年収、居住地といった「デモグラフィック属性」で分類し、それぞれのセグメントに向けた画一的なメッセージを送ることに重点を置いてきました。しかし、同じ「30代の既婚女性」であっても、その人が置かれている状況、抱えている課題、求めている解決策は千差万別です。朝の通勤時間帯にスマートフォンで情報を見ている30代女性は、育児に追われて自分の時間が持てず、隙間時間で自己啓発を図ろうとしているかもしれません。一方、同じ時間帯に同じデバイスを見ている別の30代女性は、仕事のプレッシャーから逃避するためにエンターテイメントコンテンツを求めているかもしれません。属性は同じでも、彼女たちが抱えている「本質的な課題」はまったく異なるのです。
近年のマーケティング理論では、この属性ベースのセグメンテーションから、「状況(コンテキスト)ベース」のセグメンテーションへのシフトが強調されています。消費者は常に同じニーズを持っているわけではなく、その時々の状況や感情によって、求めるものが変化します。朝と夜、平日と休日、一人の時と家族といる時では、同じ人でも異なる「ジョブ」を抱えているのです。
ビッグデータ分析の普及により、膨大な相関関係を発見することが容易になりました。しかし、相関関係は必ずしも因果関係を意味しません。「雨の日には傘の売上が増える」という相関関係は明確ですが、これは「雨が傘を買わせる」という因果関係ではなく、両者に共通する「濡れたくない」という根源的なニーズが背後にあるからです。マーケティングにおいて重要なのは、表面的な相関関係に飛びつくのではなく、その背後にある因果関係、すなわち消費者の「本質的な課題」を理解することです。データは「何が起きているか」を教えてくれますが、「なぜ起きているのか」を教えてくれるのは、消費者の生活に深く入り込んだ観察と洞察だけなのです。
消費者の本質的な課題を理解するための最も強力なフレームワークの一つが、クレイトン・クリステンセンらが提唱した「ジョブ理論(Jobs to Be Done)」です。この理論の核心は、「消費者は製品を買うのではなく、生活の中で発生した『解決すべきジョブ(用事)』を片付けるために製品を『雇用』する」という考え方にあります。ジョブ理論は、製品そのものの特性や属性ではなく、その製品が消費者の生活の中でどのような役割を果たしているのか、すなわち「機能的ジョブ」「感情的ジョブ」「社会的ジョブ」という3つの次元からアプローチします。
機能的ジョブは、具体的なタスクの遂行に関連します。例えば、「書類に穴を開ける」「通勤時間を短縮する」「情報を整理する」といった実用的な課題です。
感情的ジョブは、消費者が感じたい気持ちや避けたい感情に関連します。「安心感を得たい」「達成感を味わいたい」「退屈を紛らわせたい」「不安を解消したい」といった心理的な課題です。
社会的ジョブは、他者からどう見られたいか、どのような自己イメージを表現したいかに関連します。「良い親だと思われたい」「知的だと見られたい」「環境意識の高い人間だと示したい」といった社会的な課題です。
これらのジョブは相互に関連し、複雑に絡み合っています。消費者が製品を選ぶ際、単一のジョブだけでなく、複数のジョブを同時に解決しようとしていることがほとんどです。
ジョブ理論を象徴する有名な事例が、あるファストフード店におけるミルクシェイクの販売戦略の見直しです。この店では、ミルクシェイクの売上向上を目指していましたが、購買データからは「朝の時間帯に売上が集中している」ことしか分かりませんでした。従来のマーケティング手法であれば、「朝にミルクシェイクを買う顧客層はどのような属性か」を分析し、その層に向けた広告を増やすという施策を取ったでしょう。しかし、研究チームは異なるアプローチを取りました。実際に店舗に足を運び、朝にミルクシェイクを購入する人々を観察し、インタビューを行ったのです。
その結果、驚くべき事実が判明しました。朝の購入者の多くは、「長距離の車通勤における退屈を紛らわせたい」「片手で運転しながら、長時間かけて少しずつ飲める腹持ちの良いものが欲しい」という非常に具体的なジョブのためにミルクシェイクを雇用していたのです。彼らはバナナも試したが、すぐに食べ終わってしまう。ドーナツも試したが、手が汚れる。コーヒーだけでは物足りない。さまざまな代替案を試した末に、ミルクシェイクが最も自分たちのジョブを満たしてくれると判断したのです。一方で、同じミルクシェイクを休日の午後に購入する親子連れは、まったく異なるジョブを抱えていました。彼らは「子供にせがまれて断り切れず、良い親だと思われたい」という社会的・感情的ジョブのために購入していたのです。この場合、親にとってミルクシェイクの理想は「すぐに飲み終わる小さなサイズ」でした。
同じ製品でも、購入される状況(コンテキスト)によって、まったく異なるジョブが存在していたのです。この発見により、朝の通勤者向けには「より濃厚で飲みごたえがあり、吸うのに時間がかかる」改良版が開発され、親子連れ向けには小型サイズが提供されるという、状況に応じた最適化が実現しました。
ジョブ理論のもう一つの象徴的な事例が、任天堂のWiiです。2000年代半ば、ゲーム機市場ではソニーのPlayStation 3やマイクロソフトのXbox 360が高性能なハードウェアスペックを競い合っていました。従来の市場分析では、「ゲーム機の競合は他のゲーム機である」と考えるのが常識でした。しかし、任天堂は異なる視点を持ちました。彼らが注目したのは、「家族全員がリビングで一緒に楽しめる娯楽」というジョブです。このジョブの視点から見ると、競合はPlayStationやXboxではなく、ボードゲーム、トランプ、テレビ番組、さらには家族での散歩といった、あらゆる「家族団らんの選択肢」だったのです。Wiiは、高度なグラフィックス処理能力を追求するのではなく、直感的な体感型コントローラー(Wiiリモコン)と、年齢やゲーム経験に関係なく誰でも楽しめるシンプルなゲームデザインに注力しました。その結果、Wiiはゲーマーだけでなく、これまでゲームに興味を持たなかった層、特に家族連れや高齢者といった「非消費者」を市場に取り込むことに成功しました。
このように、ジョブ理論は競合の定義そのものを根底から覆し、全く新しい市場を創造する可能性を秘めています。
ジョブ理論において特に重要な概念が「非消費(Non-consumption)」です。これは、既存の製品やサービスを一切利用していない人々、あるいは不完全な代替手段で妥協している人々を指します。多くの企業は、既存の顧客を奪い合う「シェア争い」に注力しますが、真のイノベーションは、既存市場の外側にいる非消費者の課題に目を向けることから生まれます。彼らが既存の製品を「雇用」していないのは、単に価格が高いからではなく、その製品が彼らの抱えるジョブを満たしていないからです。例えば、高級レストランを利用しない人々は、単に価格が高いから避けているのではなく、「カジュアルな雰囲気で気軽に食事を楽しみたい」「子供連れでも気兼ねなく入れる場所が欲しい」「短時間で食事を済ませたい」といった異なるジョブを抱えている可能性があります。
非消費者が何で代替し、どのような妥協をしているかを深く探ることで、購買データには決して現れない未開拓の本質的課題が浮かび上がってくるのです。
ビッグデータは、パターン(What)を明らかにする強力なツールです。しかし、それだけでは「なぜ(Why)」という問いに答えることはできません。ここで重要になるのが、「厚いデータ(Thick Data)」という概念です。厚いデータとは、人類学者のクリフォード・ギアーツが提唱した「厚い記述(Thick Description)」に由来する概念で、数値やパターンだけでなく、文脈、感情、ストーリー、意味といった質的な情報を含むデータを指します。ビッグデータが「何が起きているか」を示すのに対し、厚いデータは「なぜそれが起きているのか」「それが人々にとってどのような意味を持つのか」を明らかにします。例えば、ビッグデータは「平日の午後3時に特定のスナック菓子の売上が増加する」というパターンを検出できます。しかし、厚いデータは「その時間帯の購入者の多くが在宅勤務者であり、午後の倦怠感と孤独感を紛らわせるための『小さな報酬』として購入している」という文脈と感情を明らかにします。
この「なぜ」が分かれば、単なる価格プロモーションではなく、「午後の小さなご褒美」というストーリーを込めたマーケティングメッセージや、孤独感を和らげるコミュニティ機能を持った製品設計といった、より深い共感を呼ぶ施策が可能になります。
厚いデータを獲得するための最も有効な手法が、「ビジネス・エスノグラフィ(行動観察)」です。エスノグラフィとは、もともと文化人類学で用いられてきた手法で、対象となる人々の生活の中に実際に入り込み、長期間にわたって彼らの行動、言葉、環境を詳細に観察・記録する調査法です。ビジネス・エスノグラフィでは、単にアンケートやインタビューで「あなたは何に困っていますか?」と尋ねるのではなく、実際の生活現場に足を運び、消費者の一挙手一投足を克明に観察します。なぜなら、消費者自身も自分の日常的な行動の中に潜む「不便」や「妥協」を言語化できないことが多いからです。人は、長年慣れ親しんだ不便さを「当たり前」として受け入れてしまい、それが問題であることすら認識していない場合があります。また、自分の行動を振り返って語る際には、無意識のうちに合理化したり、社会的に望ましいと思われる回答をしたりする傾向(社会的望ましさバイアス)があります。
エスノグラフィは、こうした言語化されないニーズ、無意識の行動パターン、妥協した解決策を発見するための最も強力なツールです。
ビジネス・エスノグラフィの威力を示す象徴的な事例が、ハインツ(Heinz)の「逆さボトル」です。2000年代初頭、主力商品であるケチャップの売上低迷に直面していたハインツは、消費者調査を実施しましたが、「味」「価格」「パッケージデザイン」といった従来の評価項目では、特に大きな不満は見つかりませんでした。そこで、ハインツは社会学者を含む観察チームを結成し、一般家庭の食卓を徹底的に観察する決断をしました。研究者たちは、実際に家庭を訪問し、家族がケチャップをどのように使用しているかを観察し続けました。その結果、驚くべき事実が判明しました。多くの消費者が、「ケチャップが少なくなるとボトルを逆さまにし、底を何度も叩いて無理やり中身を出そうとする」という行動を繰り返していたのです。さらに、一部の家庭では、最初からボトルを逆さまにして冷蔵庫に保管していました。これは、消費者自身が日常化しすぎて意識すらしていなかった「不便さ」でした。アンケートで「ケチャップの使用で困っていることはありますか?」と尋ねても、多くの人は「特にない」と答えたでしょう。なぜなら、それが「当たり前」だったからです。しかし、この観察に基づき、ハインツは革新的な解決策を生み出しました。キャップを下にした「逆さボトル」です。このデザインにより、ケチャップは常に出口付近にあり、叩いたり振ったりする必要がなくなりました。さらに、キャップを大きくして押し出しやすくする改良も加えました。
この逆さボトルは、発売後わずか3ヶ月で純利益を17%以上増加させるという驚異的な成功を収めました。重要なのは、この成功が高度な技術革新によるものではなく、消費者の「日常化された不便さ」という本質的課題を発見したことから生まれた点です。
もう一つの印象的な事例が、スウェーデンの高級寝具メーカー、ヘステンス(Hästens)です。ヘステンスは、最高品質の素材と職人技で知られるブランドでしたが、販売店での売上が伸び悩んでいました。
従来の分析では、「価格が高すぎる」「競合との差別化が不十分」といった仮説が立てられましたが、実際に店舗で顧客の行動を観察したところ、全く異なる課題が浮かび上がりました。
観察チームは、多くの顧客が店舗に入ってくるものの、ベッドに横になって寝心地を試すことなく、短時間で立ち去ってしまうことに気づきました。
さらに詳しく観察すると、以下のような障壁が存在していました。
つまり、顧客が求めていたのは単なるベッドという「物」ではなく、「最高の睡眠体験」そのものでした。しかし、店舗は単なる「スペック比較の場」になっており、本来提供すべき体験価値を届けられていなかったのです。
この発見に基づき、ヘステンスは店舗設計を根本から見直しました。
この改革により、ヘステンスは売上を77%向上させることに成功しました。この事例が示すのは、製品そのものの品質向上ではなく、「体験の障壁を取り除く」ことが本質的な課題解決になり得るという点です。
ビジネス・エスノグラフィの成功の鍵は、調査を外部の専門会社に丸投げするのではなく、事業責任者や開発者自らが現場に足を運び、顧客の状況を「追体験」することにあります。大阪ガス行動観察研究所の松波晴人氏は、「現場百回」の精神を強調しています。一度や二度の訪問では、本質的な課題は見えてきません。繰り返し現場に通い、さまざまな角度から観察し、顧客との対話を重ねることで、初めて深い洞察が得られるのです。また、単に観察するだけでなく、可能であれば自分自身がその状況を体験してみることも重要です。通勤時間の長さ、育児の大変さ、高齢者の身体的制約といった顧客の現実を、自分の身体を通して理解することで、表面的な共感を超えた深い理解が生まれます。
この「追体験」によって、問いの質が根本から変わります。「どうすれば売れるか」ではなく、「どうすればこの人たちの生活をより良くできるか」という本質的な問いが生まれるのです。
AI(人工知能)、特に生成AI(Generative AI)の劇的な進化は、マーケティングや事業開発のプロセスに革命をもたらしました。大規模言語モデル(LLM)を活用することで、これまで膨大な時間を要していた市場分析、コンテンツ制作、顧客セグメンテーション、さらには高度なパーソナライゼーションが、数秒で実行可能になっています。
マッキンゼーの調査によれば、AIは世界的に年間2.6兆ドルから4.4兆ドルの付加価値を創出する潜在能力を持つとされています。特にマーケティング領域では、以下のような活用が進んでいます。
これらの技術は、マーケティングの効率性とスケーラビリティを飛躍的に向上させました。
しかし、AIがどれほど進化し、効率性と精度を高めたとしても、マーケティングの核心が「人間の感情を捉えること」にあるという事実は変わりません。むしろ、テクノロジーが普及すればするほど、消費者の「琴線に触れる」能力、すなわち人間的な共感(エンパシー)や倫理的判断が最大の差別化要因となります。顧客が真にサービスを評価する基準は「効率性」だけではありません。それ以上に重要なのが「信頼」であり、信頼を築くのはAIの計算能力ではなく、人間の「共感」や「文化的理解」です。ハーバード・ビジネス・レビューの研究では、不安を感じている顧客に対し、たとえ最終的にAIの自動応答で問題が解決したとしても、「必要に応じて人間のオペレーターと話すことができる」という選択肢を提示するだけで、顧客満足度と信頼が大幅に向上することが示されています。
これは、人々が単なる問題解決だけでなく、「自分の感情が理解されている」「必要であれば人間が対応してくれる」という安心感を求めていることを示しています。
AIはパターン認識において卓越していますが、文脈の中にある微細なニュアンスや、言葉の裏にある「言外のニーズ」を察知することは依然として困難です。例えば、顧客が「大丈夫です」と言った時、その言葉の裏には「本当は困っているが、迷惑をかけたくない」という遠慮が隠れている場合があります。日本文化特有の「察する」文化では、このような言外の意味を読み取ることが極めて重要ですが、AIはこうした文化的コンテキストや感情の機微を捉えることが苦手です。また、同じ言葉でも、それが発せられた状況、声のトーン、表情、沈黙の長さなどによって、全く異なる意味を持つことがあります。人間は、これらの非言語的な情報を総合的に判断して相手の本当の気持ちを理解しますが、AIにはこの能力が限定的です。
これからのマーケティングに求められるのは、AIを「コスト削減の自動化ツール」としてのみ捉えるのではなく、人間の創造性や共感力を増幅させる「インテリジェント・アシスタント」として活用する姿勢です。理想的なモデルは、AIが効率的に処理できるルーチンワークや情報収集を担当し、複雑で感情的な配慮を必要とする場面では即座に人間が対応する「ハイブリッド・インテリジェンス」です。
例えば、カスタマーサービスにおいて:
このような役割分担により、AIの効率性と人間の共感力が最大限に発揮され、顧客満足度と業務効率の両方を高めることができます。
マーケティングの大家フィリップ・コトラーらは、「H2H(Human-to-Human)マーケティング」という概念を提唱しています。これは、B2B(企業対企業)やB2C(企業対消費者)といったこれまでの区分を超えて、ビジネスの本質は「人間が、人間の抱える課題を解決するために、人間と関わること」にあるというパラダイムシフトです。H2Hマーケティングは、企業と消費者という対立構造を捨て、一人の「人間」としての課題に寄り添うアプローチです。デジタル化が進む現代だからこそ、人間らしい温もり、誠実さ、共感が最大の差別化要因になるのです。
パタゴニア、Airbnb、エトシー(Etsy)といった成功企業は、このH2Hの精神を体現しています。彼らは単に商品を販売するのではなく、消費者が抱く「地球を守りたい」「新しい世界に触れたい」「手作りの温もりを感じたい」という根源的な価値観(パーパス)に寄り添い、誠実でオーセンティックなストーリーを語り続けることで、広告費に依存しない強固なコミュニティを形成しています。
行動経済学や神経科学の研究により、人間の意思決定において感情が極めて重要な役割を果たしていることが明らかになっています。ノーベル経済学賞を受賞したダニエル・カーネマンは、人間の思考プロセスを「システム1(直感的・感情的)」と「システム2(論理的・分析的)」に分類しました。従来、マーケティングでは消費者を「合理的に判断する経済人」として捉え、製品の機能やコストパフォーマンスを論理的に説明することに重点を置いてきました。しかし、実際の購買行動の大部分は、システム1の直感的・感情的な判断によって支配されています。
感情は単なる主観的な感覚ではなく、脳の意思決定システムに直結する強力なドライバーです。したがって、顧客体験(CX)の設計は、物理的な利便性だけでなく、心理的な充足感や記憶の形成プロセスを考慮したものでなければなりません。
感情起点のCX設計において最も重要なフレームワークが、行動経済学における「ピーク・エンドの法則(Peak-End Rule)」です。この法則は、人間がある体験の全体的な質を、その時間の長さや平均値ではなく、「最も感情が盛り上がった瞬間(ピーク)」と「その体験が終わった瞬間(エンド)」の印象で判断し、記憶に定着させるというものです。カーネマンの有名な実験では、被験者に冷水に手を浸す苦痛な体験をしてもらいました。実験Aでは60秒間、実験Bでは60秒間の後にさらに30秒間やや温かい水に浸しました。客観的には実験Bの方が長時間苦痛を味わっているはずですが、被験者の多くは実験Bの方が「マシだった」と評価しました。なぜなら、最後の30秒が「比較的苦痛が少ない状態」で終わったからです。
この法則は、マーケティングにおいて極めて重要な示唆を与えます。すべてのタッチポイントを均一に整備するのではなく、意図的に「感情のピーク」を作り出し、満足度の高い「終わりの瞬間」を設計することが、ブランドへのロイヤリティを高める鍵となるのです。
実践例:
「アフェクト・ヒューリスティック(感情ヒューリスティック)」とは、人が「良い」と感じるものに対してはリスクを低く見積もり、価値を高く見積もる傾向を指します。逆に、「悪い」と感じるものに対してはリスクを過大評価し、価値を過小評価します。これは、論理的な説得の前に、まずポジティブな感情的フックを提供することが極めて重要であることを意味します。消費者が製品やブランドに対して好意的な感情を抱けば、その後の情報処理がポジティブに偏り、購買に至る可能性が高まります。
実践例:
消費者の感情状態に合わせた「戦略的パス・デザイン」も有効です。情報が多すぎると消費者は決定回避に陥りますが、あえて選択肢を絞り込んだり、情報を段階的に開示(Progressive Disclosure)したりすることで、消費者の認知負荷を下げ、ポジティブな感情へと導くことができます。
プログレッシブ・ディスクロージャー(段階的開示)の例:
このアプローチにより、消費者は圧倒されることなく、自然な流れで意思決定へと導かれます。
効果的なCX設計のためには、顧客が体験の各段階でどのような感情を抱いているかを可視化した「感情の地図(Emotional Journey Map)」を作成することが有効です。従来のカスタマージャーニーマップは、顧客が「何をするか」という行動に焦点を当てていましたが、感情の地図は「どう感じているか」という心理状態に焦点を当てます。
感情の地図に含めるべき要素:
この地図を作成することで、どこに改善の余地があるか、どこに「ピーク」を作り出すべきか、どのように「エンド」を設計すべきかが明確になります。
情報過多なデジタル社会において、消費者はスクリーンの向こう側の情報に対して冷淡になりつつあります。毎日数千件の広告に晒され、SNSでの絶え間ない通知に追われる中で、「デジタル疲労」や「通知疲れ」が深刻化しています。一方で、物理的な触覚や空間を伴うアナログの体験は、五感を刺激し、デジタルでは得られない深い記憶と信頼を刻むことができます。手書きの手紙、実店舗での対面接客、製品の手触り、香りといったアナログ体験は、デジタル世代にとって逆に新鮮で特別な価値を持つようになっています。特にZ世代は、デジタルネイティブでありながら、デジタル広告に埋もれる一方で、自分宛てに届く心のこもった手紙や、洗練されたリアル店舗での体験に「自分のために手間をかけてくれた」という特別な価値(オーセンティシティ)を感じる傾向があります。
これからのマーケティングは、デジタルとアナログを対立させるのではなく、両者をシームレスに融合させた「デジアナ融合(フィジタル)」の視点が不可欠です。
特に注目すべきアプローチが、デジタルでの行動データをトリガーとしてアナログのアクションを起こす「一筆書き(Unbroken Line)」のシナリオ構築です。
従来のDM(ダイレクトメール)の課題:
ユーザー・トリガー型アナログ施策の利点:
最新のデータ統合技術を活用すれば、「Webサイトで商品をカートに入れたが購入しなかった(カゴ落ち)」というデジタル上の行動を検知した数日後に、その消費者のためだけにパーソナライズされた内容のDMを物理的に届けるといった、精緻な施策が可能になります。
一筆書きシナリオの実例:
このように、デジタルで効率的に到達し、アナログで感情を揺さぶる。この一連の「一筆書き」の導線を設計し、絶えずPDCAを回し続けることが、現代のマーケターに課せられた使命です。
デジタルとアナログを融合させる際に最も重要な要素が「オーセンティシティ(Authenticity/本物感)」です。これは、単なる表面的な演出ではなく、ブランドの価値観や企業の姿勢が一貫して誠実であることを意味します。消費者は、企業の言葉と行動の不一致を敏感に察知します。環境配慮を謳いながら大量生産・大量廃棄を続けるブランド、顧客第一を掲げながら実際には利益優先のサービスを提供する企業は、すぐに信頼を失います。特にソーシャルメディアの時代においては、企業の不誠実な行動は瞬時に拡散され、ブランドイメージに致命的なダメージを与えます。逆に、誠実で一貫性のある姿勢を貫くブランドは、熱狂的なファンを獲得し、広告費をかけずとも口コミで広がっていきます。
オーセンティシティを高めるための要素:
デジタル化が進む中で、「実店舗は不要になる」という議論がありましたが、実際には優れた体験を提供する実店舗の価値は高まっています。ただし、その役割は従来の「商品を陳列して販売する場所」から、「ブランド体験を提供する場所」へと変化しています。
体験型店舗の成功例:
これらの店舗は、単に商品を売るのではなく、顧客の感情を動かし、ブランドの世界観に浸る体験を提供することで、デジタルでは得られない深い共鳴を生み出しています。
消費者の本質的課題を体系的に抽出するための実践的なフレームワークとして、「ジョブ・マッピング」を紹介します。
ステップ1:ジョブの特定
まず、製品やサービスが解決しようとしている「ジョブ」を特定します。この際、製品の機能ではなく、消費者の生活の中での役割に焦点を当てます。
ステップ2:ジョブのコンテキスト(状況)の特定
ジョブは常に特定の状況(コンテキスト)の中で発生します。以下の5W1Hで状況を詳細に記述します。
ステップ3:機能的・感情的・社会的ジョブの分解
特定したジョブを3つの次元に分解します。
ステップ4:現在の解決策と妥協点の特定
消費者が現在どのような方法でそのジョブを解決しようとしているか、そしてどのような妥協を強いられているかを明らかにします。この「妥協点」こそが、イノベーションの機会です。
ステップ5:競合の再定義
ジョブの視点から見た時、真の競合は誰(何)なのかを再定義します。同一カテゴリーの製品だけでなく、そのジョブを解決し得るあらゆる手段が競合となります。
フィールドでの観察やインタビューの際に、以下の5つの質問を軸に深掘りすることで、本質的な課題が見えてきます。
質問1:「最後にこの製品/サービスを使った時のことを詳しく教えてください」
抽象的な意見ではなく、具体的なエピソードを語ってもらうことで、実際の使用文脈が明らかになります。
質問2:「その時、他にどのような選択肢を検討しましたか?」
競合の認識を知ることができます。意外な代替手段が出てくることもあります。
質問3:「それを選んだ決め手は何でしたか?」
真の選択基準が明らかになります。価格、便利さ、感情的な安心感など、様々な要因が考えられます。
質問4:「使用中に困ったこと、我慢したことはありましたか?」
顕在化していない不満や妥協点が明らかになります。「特にない」と答えられても、実際の行動を観察すると妥協している場合があります。
質問5:「理想的には、どうなっていればより良かったですか?」
ただし、この質問への回答は慎重に扱う必要があります。消費者は既存の枠組みの中でしか答えられないことが多いためです。真のイノベーションは、消費者が想像できない解決策を提供することから生まれます。
フィールドでの行動観察を効果的に行うためのチェックリストです。
観察前の準備:
観察中の着眼点:
観察後の分析:
本記事を通じて、消費者の本質的な課題を捉えるためには、購買データやデモグラフィック属性を超えて、「生活文脈」に深く入り込むことの重要性を論じてきました。ジョブ理論による本質的なニーズの理解、フィールドマーケティングによる現場観察、AI時代における人間的共感の価値、感情起点のCX設計、デジタルとアナログの融合――これらすべてのアプローチに共通するのは、「消費者を数字やセグメントとして見るのではなく、一人の人間として理解しようとする姿勢」です。ハインツの逆さボトルも、ヘステンスの睡眠体験予約サービスも、任天堂のWiiも、すべて「現場での小さな違和感」「日常化された妥協」「言語化されないジョブ」に気づき、それを解決しようとする執着から生まれました。
本質的な課題抽出は、冷たいデータ解析からではなく、人間の体温を感じる「共感」と、現場に足を運び続ける「執着」から生まれます。デジタル技術が進化すればするほど、この人間的なアプローチの価値は高まっていくでしょう。情報飽和時代において、消費者の限られたアテンションを獲得するためには、表面的なメッセージの露出量を増やすのではなく、一人ひとりの生活文脈に深く適応した「カスタマイズされた価値提供」が不可欠です。そして、その価値提供の核心にあるのは、消費者の本質的な課題への深い理解なのです。
マーケターの皆様には、ぜひ明日から、デスクを離れて現場に足を運び、消費者の生の声と行動に耳を傾けていただきたいと思います。そこにこそ、次のイノベーションの種が眠っています。
【参考】
inStreamly「
Marketing Nice Guys(2025)「
マーケトランク(2026)「
sellwell(2025)「
一筆将人(2020)「
GiXo (2014)「
Harvard Business Impact(2024)「
The AI Journal(2026)「
AgEcon Search (2025)「
Bologna Business School(2022)「
Holistic Email Marketing「
PageOn「
FasterCapital「
アドレス通商株式会社(2025)「
Bdash Marketing / 鈴木睦夫(2018)「

アーツアンドクラフツ Consulting & Solution事業部/執行役員
新卒で広告代理店に入社。Webコンサルタントを経て、2015年当社に入社し、C&S事業部の立ち上げに参画。多岐に渡る業種、分野のプロジェクトを経験し、戦略から実行まで支援をしてきた。クライアントの期待値を超えることを前提とした、コンサルティングを常に心掛けている。